鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

橋本以行 ~インディアナポリス撃沈の艦長、海を渡り証言台に立つ~

 先日書いた「チャールズ・B・マクベイⅢ世」の乗艦インディアナポリスは第二次大戦における米海軍最後の撃沈された水上艦艇であるが(潜水艦を含めると1945年8月6日にブルヘッドが撃沈されている)これは日本海軍潜水艦部隊が最後に記録した戦果であった。今回はインディアナポリス撃沈の立役者であり、戦後アメリカ(ハワイ)で開かれたインディアナポリス沈没に関しての軍法会議に証人として出廷した「橋本以行」元艦長を考察したい。

 橋本氏は1909年10月14日生まれ。昭和6年に海軍兵学校を卒業し昭和12年の南京攻略には砲艦「保津」乗員として参加している。その後海軍潜水学校甲種学生となり潜水艦艦長としての勤務資格を得、半年後潜水艦「呂31号」の艦長を皮切りに「伊158」「呂44」潜水艦長を歴任、昭和19年に最新鋭潜水艦の「伊58」の艤装委員長に補され、9月7日の竣工から艦長に就任する。
 伊58号潜水艦は乙型改2と分類される潜水艦で最新鋭潜水艦ではあったが戦時急造のため工事の簡易化もあり水上速力が低下(約17.7ノット)しており最終建造艦である伊58は回天搭載を予定していたため水上攻撃兵器である14センチ砲を搭載していなかった。乙型潜水艦は索敵のため零式小型水上偵察機の搭載能力があったが、戦争後半に竣工した伊58は偵察機の搭載機会はなく後に搭載設備も撤去されている。実際に伊58が行った作戦はすべて回天特別攻撃隊を搭載しての任務であった。

 伊58の一度目の作戦任務は回天部隊「金剛隊」の4基を搭載してのグァム島アプラ港攻撃であった。回天の発射は成功し橋本艦長は潜望鏡からアプラ港に煙がたなびくのを目撃しているが実際の戦果は確認されていない。
 二回目の出撃(神武隊)は出撃後に攻撃中止命令が出され伊58はウルシーへの航空特攻作戦の電波誘導艦を務めた後帰投する。
 三回目の出撃は米軍の沖縄上陸を受けて慶良間列島に停泊する米軍艦艇を狙った回天攻撃(多々良隊)であったが悪天候と米軍の警戒が厳しく、やむなく沖縄とマリアナ諸島間の航路を狙う作戦に切り替えるが戦果無く帰投することになる。帰投後航空兵装を撤去し回天搭載数を6基に増やした伊58は多聞隊を収容し最後の作戦に出撃する。

 7月16日に呉を出撃した伊58は途中搭載の回天に異常が生じ交換などを行ったため二日ほど遅れて7月28日にグァムとレイテ島を結ぶ航路に展開、その日回天2基を発進させ、事後も哨戒に当たっていた7月29日深夜、テニアン島に原爆を輸送し終えレイテに回航途中だった米重巡インディアナポリスと遭遇する。
 敵艦発見の報を受け橋本艦長は回天2基に発進準備を命ずるとともに魚雷戦の準備を行っていた。当時月は出ていたが雲が多く、回天の潜望鏡性能では目標を見失うおそれがあると判断した橋本艦長は魚雷による攻撃を決意する。日付が変わった7月30日0時02分に伊58から二回に分けて計6本の魚雷が発射され、うち3本が命中(米軍記録では2本)しインディアナポリスは15分後には沈没する。橋本艦長は月明かりの元視認した戦果を「アイダホ型戦艦一隻撃沈確実」と報告する。インディアナポリスの艦橋は城郭を思わせる日本の重巡と違ってほっそりとしており、米戦艦の艦橋と似ているから無理もないことであったろう。この攻撃中回天搭乗員から出撃の催促が何度もあったが橋本艦長はそれを拒んだ。暗夜に無理に出撃させて無駄死にになるよりも確実な戦果を上げれる戦況で送り出そうという決意の元の判断だったろう。数日後報告のため無線を傍受すると米軍の緊急電が矢継ぎ早に傍受でき、米軍に大きな喪失があったことを認識するが、橋本艦長が事実を知るのは終戦後になってからのことである。

 その後も伊58は回天による通商破壊戦を行い、故障した回天1基を残すのみとなった8月15日、終戦を知らせる電報を受け取る。橋本艦長は混乱を避けるため乗員には知らせず、二日後光港に入港してから乗員に打ち明け、伊58の戦闘に終止符が打たれるのである。

 終戦後も復員せず海軍に留まった橋本中佐は復員輸送艦に指定された駆逐艦「雪風」艦長を発令されていた。ところが発令の翌日、思わぬ通達が海軍省に入る。
 当時米軍ではインディアナポリス沈没の責任を問う軍法会議が行われており、撃沈の当事者である橋本中佐を法廷の証人として出廷させよという命令であった。橋本中佐は急遽渡米することになり、雪風艦長は佐藤清七少佐が拝命することになったのである。

 渡米した橋本中佐にはまず予備尋問が行われる。米軍の関心事は二つあった。「インディアナポリスと認識した上での攻撃であったか?」と「インディアナポリスが適切な行動を取っていれば魚雷命中は防げたか?」の二点であった。

 「インディアナポリスと認識していたか?」という疑問は米海軍側が情報漏洩があったかどうかの確認であったろう。伊58がインディアナポリスの航路上に配置されたのは偶然の結果であり伊58側が攻撃した艦艇をインディアナポリスと知るのは終戦後のことである。この点は米軍側も確認作業的なことであったろう。実際は後者の「インディアナポリスが適切な行動を取っていれば魚雷命中は防げたか?」という点に米軍は強い関心を持っていたのである。

 当時米海軍内ではインディアナポリス艦長チャールズ・B・マクベイⅢ世大佐の責任問題が紛糾していた。インディアナポリス乗員の犠牲は沈没そのものよりも沈没から救助までに時間がかかり、漂流中の死者の方が多く批判が集中していた。この矛先をかわすためマクベイ艦長へ全責任を押しつけるべく裁判が進められていたといわれている。
 橋本中佐は予備尋問で「インディアナポリスが対潜航路であるジグザグ航路を取っていたら沈没は防げたか?」の質問に「位置的に見てジグザグ航路を取っていたとしても沈没は不可避であった」と陳述している。これは米海軍の思惑とは違う回答であり、結局法廷での証人尋問はこの点に触れず、橋本中佐への証人喚問は無為に終わってしまう。

 戦後橋本中佐は梅宮大社の神職に就く。そして最晩年の夏、あるドキュメンタリー番組に出演したをの管理者は拝見している。それは米軍資料の中から終戦後五島列島沖で海没処分された日本海軍潜水艦の記録フィルムが発見されたことを報道する番組で、その中に橋本中佐が艤装から終戦まで艦長を務めた伊58の姿もあった。番組スタッフが伊58の最後を「ごらんになりますか」と聞くと「是非とも見せてください」と橋本艦長は答え、すべてを見終え、静かに涙を流していたことが印象的であった。

 2000年10月25日 橋本元艦長は静かに世を去る。享年91歳。

e0287838_9311583.jpg

橋本氏が艦長を務めた伊58の最後の姿、1946年(昭和21年)4月1日米軍により自沈処分。写真は終戦まもなくの撮影と思われ、シュノーケルや機銃の装備位置がよく分かる。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-18 09:41 | 妄想(人物) | Comments(2)
Commented by 近藤信夫 at 2016-04-19 00:39 x
米国在住中に、マクベイ艦長の軍法会議の様をドキュメンタリータッチで綴ったディスカバリーチャンネルのDVDをレンタルしてみたことがあります。生前の橋本館長が神職姿でインタビューに応えていましたが、大変印象的だったのは、橋本氏自ら証人として召喚されたことに驚かれ、「もし立場が入れ替わっていたら、戦勝国の日本軍だったら軍法会議など絶対に開かないだろう。」と言っていたことでした。満州事変を起こした関東軍参謀、司令官の石原莞爾、板垣征四郎、ノモンハン事変やガダルカナルの戦局を誤った辻正信参謀など、一切裁かれた痕跡もありません。開戦から敗戦に至る過程で、戦訓に学ぶことの乏しかった日本軍や政府は内部から自壊し、結局米国の、この順法精神に敗れたのかもしれません。
Commented by 通りすがり at 2017-05-26 21:48 x
>近藤信夫氏
日本のなあなあで済ませてしまう事なかれ主義は確かに問題でしたが、この件を例に米国の順法精神などと言える物ではなく、むしろ真逆のものです。
この裁判は上層部のミスをマクベイ艦長に押しつける為の物であり、その事から後に艦長の名誉回復運動も起こされています。