鼈の独り言(妄想編)

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イディ・アミン ~「人食い大統領」と呼ばれた男~

 第二次大戦後、ヨーロッパ列強に分割植民地されていたアフリカ諸国に独立の気運が高まり、多くの国々が独立を勝ち取ることになる。しかし多くの国は政権の基盤が脆く、いくつかの国では軍が権力を握り、軍の力を背景に独裁的な政治家が何人も生まれてしまう結果になる。今回はそんなアフリカの独裁者の中でも異彩を放つウガンダの独裁者、イディ・アミンを考察したい。

 イディ・アミンはその生涯を回顧したり、自伝を残したりせずに世を去ってしまったので、彼の出生については不明な点が多い、生年は1925年頃、ウガンダのコボコ、またはカンパラ生まれとする説が多い。第二次大戦後成人した彼はイギリス植民地軍に入隊し、注目を浴びることになる。

 彼は身長2mを越える巨漢で、運動神経も優れておりボクシングのヘビー級東アフリカチャンピオンとなり、また白人しか選手になれなかったラグビーチームに特別に参加を許されたりスポーツ選手として特別待遇を受けていた。昇進も早くイギリスのウィルトシャー歩兵学校に留学し植民地軍中尉にまで昇進する。そしてアミンが青年将校として頭角を現すころにウガンダはイギリスから独立することになるのである。

 ウガンダ独立は少々複雑な経緯をたどっている。元々ウガンダ地域には「プガンダ王国」という小規模な王国が19世紀まで独立を保っており、イギリスはプカンダ王国を含む小王国をまとめて「ウガンダ保護領」として植民地化していたが、小王国にはある程度の自治権を与えられていた。第二次大戦後ウガンダ地域にも独立の気運が高まると当初イギリスは当時のプガンダ国王ムデサⅡ世を逮捕するなど弾圧を行ったが、結局は独立を容認する。そして1962年10月ウガンダは独立するが、王国ごとの独立は経済的理由から見送られ連邦制をとることとし初代大統領にはプカンダ王国国王のムデサⅡ世が就任することになる。併せて議会の選挙も行われ、中央集権化を推進するウガンダ人民会議が第一党となり党首ミルトン・オボデが首相に就任する。
 
 ウガンダ政府はウガンダ人民会議と王党派の連立政権となるが、元々思想的に相入れない両者の対立は避けられなかった。1966年2月、王党派の代議士がオボデ首相を含む閣僚数人が象牙の密輸に関与しているという疑惑を発表する。その疑惑の中心人物とされたのが当時ウガンダ軍司令官になっていたアミン大佐であった。この暴露で窮地に立ったオボデは逆にアミン大佐を中心とする軍のクーデターを起こし政権を掌握する。大統領だったムデサⅡ世は旧宗主国であるイギリスに亡命し、オボデを大統領とする新政府が樹立され、アミンは軍の全権を掌握することになる。

 しかしオボデの政策はすぐ行き詰まりを見せる。オボデは社会主義を標榜し企業の国有化を進めようとするが、その転換の方法すら知らず、経済は混乱してしまう。さらにオボデは政敵を次々と粛正してゆく。粛正には軍の関与もあり、後年アミンが粛正したとされた件の何割かはオボデ指示のものであったと言われている。

 1971年オボデはシンガポールに外遊するが、この隙をついてアミンがクーデターを決行し、ウガンダの全権を掌握する。アミンのクーデター決行は自らの公金横領の疑惑をもみ消すのが直接の原因と言われているが、この公金横領の動機はクーデターの為の傭兵を雇うためと言われており、いつクーデターが起こってもおかしくない状態であったと言える。また軍を掌握しているのにわざわざ傭兵を雇わなければならないというウガンダ軍の状況が後にアミンの失脚の原因となる。

 政権を掌握した直後、アミンは西側寄りの姿勢を示す。オボデ政権が社会主義を標榜して失敗しているため必然的に西側寄りにならざるを得なかったとも言えるが、西側諸国にしてもウガンダの西側寄りの姿勢は歓迎すべきことであり、経済援助も行われるようになる。しかしアミンは次第にオボデ派を弾圧し、国内に強権政治を行うようになる。

 強権政治は次第にアミンの独裁政治に変化してゆく。ウガンダに定住していたインド系住民の強制国外退去、オボデ派の粛正(一説には30~40万人を虐殺)などによりアミンは「黒いヒトラー」などと揶揄され、経済援助も打ち切られてしまう。ついには「政敵の肉を食べた」とまで言われるようになり「食人大統領アミン」という映画まで製作されてしまう。前に述べたようにアミンの虐殺とされたものの何割かは前政権でオボデが行ったものも含まれており、アミン自身は菜食主義で鶏肉しか食べなかったと言われている。「食人」という揶揄は多少割引いてみるべきだろう。しかしウガンダ国内に恐怖政治を強いたことは事実である。

 西側諸国から絶縁されてしまったアミンは当時アメリカと対立していたリビアの独裁者カダフィ大佐に接近、その仲介を受け旧ソ連から援助を受けるようになる。一方1975年にはアフリカ統一機構議長を務めるようになるがウガンダの近隣諸国はイギリスからの独立が多く、独立後も経済的な繋がりが大きくウガンダは孤立化を深めてゆく。掌握していた軍部もアミンの政策に疑問を呈するようになり、アミンの権力は揺らいでゆく。1976年に自国内のエンペデ空港にハイジャックされ着陸したエールフランス機ハイジャック事件ではイスラエル軍の軍事介入を受けてしまい、アミンの威信は大きく傷ついてしまう。これを取り繕うかのように前首相オボデを亡命させ対立していた隣国タンザニアに侵攻を行うが、逆にタンザニア軍に首都カンパラまで攻め込まれてしまい、ついには軍の離反を招いて失脚し、リビアを経由してサウジアラビアに亡命することになる。

 アミンはその巨漢に似合わぬユーモアを持った人物で、場を和ませることも多かったと言われる。失脚で実現しなかったが、日本のプロレスラー、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行うことを承諾したり、アフリカ統一機構の会合ではジョークを連発し後に攻め込む相手のタンザニアの大統領ニエレレにも握手を求めたりしている。その一方で彼は経済、それも初歩的な金銭感覚ですら疎かったようで、独立前ケニアの反乱鎮圧に派遣され、そこで小切手を渡されたものの「無限に買い物ができる」と勘違いして使いまくり上司があわてて取り消しに奔走したり、政権を掌握した後湯水のごとく金を使うことを諫めれると「金など刷ればいいじゃないか!」と真顔で答えたと言われる。こうした天衣無縫ともいえる性格は時には「優しき巨人」と慕われ、時には「食人大統領アミン」と恐れられることになる。

 「アミン」という名前の響きになにかしら面白味を感じた人物に日本のシンガーソングライター、さだまさしがいる。彼の楽曲「パンプキンパイとシナモン・ティー」の歌詞の中に喫茶店の店名として「安眠」(あみん)として登場させている。さらにさだのファンであった女性が自らのユニット名にこの名前を冠している。「待つわ」をヒットさせたユニット「あみん」である。

 国を追われサウジアラビアに亡命したアミンは亡命後ほとんど表舞台に出ず、2003年に多臓器不全で亡くなる。独裁者に似合わないが幸福ともいえる自然死であった。

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                   第3代ウガンダ大統領 イディ・アミン・ダダ・オウメ
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by narutyan9801 | 2013-07-08 11:27 | 妄想(人物) | Comments(1)
Commented by ETCマンツーマン英会話 at 2014-08-02 23:25 x
映画『The Last King Of Scotland』で初めてイディ・アミンのことを知りました。

こちらの投稿でより詳しく知ることができました。感謝です。