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鼈の独り言(妄想編)

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葦原金次郎 ~「狂聖」と呼ばれた男の56年間~

 昨日は「アメリカ合衆国皇帝」僭称者ジョシュア・ノートンを考察したが、ちょうどノートンが亡くなった頃日本にも皇位僭称者が現れている。今回は「葦原将軍」「葦原天皇」と呼ばれた葦原金次郎を考察したい。

 葦原金次郎は嘉永五年(1852年)金沢生まれで櫛職人であったが、24歳頃から精神を病み1882年(明治十五年)明治天皇への直訴未遂事件を起こし東京府癲狂院(のちに巣鴨病院と名前を改める)に強制入院させられる。数度脱走を繰り返しこの間に傷害事件を起こしており1885年に再入院させられた後は病院の厳しい監視が付けられるようになる。

 葦原の病気の診断は「躁病」「分裂症」から「梅毒による進行麻痺」など診断した医学者によってまちまちで現在も正確な病名ははっきりしていない。特徴的なのは「誇大妄想」であり自らを「将軍」と認識しており、その誇示に躍起となることであった。元々櫛職人で手先の感覚は鈍っておらず古びたフロックコートを自ら大礼服に仕立てあげたり、段ボール紙で礼帽を作るなど「将軍」としての礼装を自分で整えている。

 葦原の妄想は日露戦争の勝利によりさらに大きくなり、いつしか葦原の妄想は「天皇」であるという域にまで達していた。病院側では葦原の要求により新聞の閲覧を許可しており、病院に監禁されていながら世事には精通した葦原は世間に遠慮のない発言を繰り返し、それが新聞記者の目に留まり「葦原将軍のお言葉」が新聞紙上に掲載されることになる。娯楽の少ない当時「葦原将軍のお言葉」は庶民を楽しませるものであった。巣鴨病院には見学者が訪れるようになり時には修学旅行の団体が病院を訪問することもあった。こうした人々に葦原は「発令」や「勅語」を発行し、その売り上げで他の患者に牛乳を振る舞っていたといわれる。

 巣鴨病院は当時としては数少ない精神病棟を有した病院であり、政府関係者も見学に訪れることがあった。そんな政府関係者にも葦原は遠慮のない言動を行う。伊藤博文には機密費の貸与(つまりは金の無心)をして無視されたり、乃木希典と「会見」したときには「旅順では尊公も苦労したのう。二人の息子を亡くしたことは気の毒である。ご苦労であった」と本気で労い、さらに明治天皇の訪問にいたっては「やあ、兄貴」と声をかけ周囲のものをハラハラさせる一面もあった。明治天皇に「兄貴」と声をかけたのはおそらく葦原ただ一人であったろう。新聞の「勅語」も世間をにぎわしていたが「印度ニ自治政府ヲ作リ、ガンディーヲ首班ニ任ズ」など注目に値するような発言も行っている。

 葦原は1919年(大正八年)巣鴨病院から松沢病院へ転院し、1937年(昭和十二年)2月2日に亡くなるまで松沢病院で暮らしていた。晩年の葦原は特別に個室を与えられ、自ら作成した木製の大砲を背に悠然と顎髭を蓄えた顎をしゃくって医師や取材に訪れた記者を出迎えていた。癲狂院に収容されて56年。その死は新聞でも報道され世間に愛され続けた「狂聖」の死を惜しんだという。葦原の死の数週間後「二・二六事件」が勃発し日本は娯楽が禁止される時代を迎えることになる。

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                            「狂聖」葦原金次郎
by narutyan9801 | 2013-06-04 09:51 | 妄想(人物)