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鼈の独り言(妄想編)

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ギリシャの火 ~現代に伝わらなかった炎を発する秘密兵器~

 戦術論で「戦術兵器の優位で戦略を覆すことはできない」は基本と言えるが、戦術兵器が既存の兵器の概念を覆すような場合、戦略を覆すことが稀に起こる。たとえばヒッタイトの鉄製武器などである。しかしこうした卓越した武器はすぐに模倣され、戦略的優位を長期間保持するのは困難である。しかし中には千年近くに渡って戦略的優位を保てる兵器も存在したのである。今回はそんな兵器の中から「ギリシャの火」を考察したい。

 「ギリシャの火」はビサンティン帝国(東ローマ帝国)が使用した武器で、簡単に言ってしまえば火を放つ焼夷兵器である。焼夷兵器自体は古代から使用されてきたが、「ギリシャの火」の特徴は水をかけても火が消えず、ますます燃え広がったという燃焼力の強さにある。このため「ギリシャの火」は主に軍船に搭載され敵艦艇を火攻めにすることに用いられた。さらに応用として燃焼物を陶器に入れ、カタパルトで発射する攻城戦用の兵器として使用されたり、個人が携帯して使用する現在の火炎放射器に近いものも開発されている。

 ギリシャの火の製造方法は残念ながら現代には伝わっていない。ビサンティン帝国でもギリシャの火は最重要軍事機密でたとえば同盟軍が存在するような戦場では機密保持の為に用いられなかった。このためギリシャの火の使用は主にビサンティン帝国が単独で戦闘を行う防御戦で多く用いられたようである。古くから様々な人々がギリシャの火の再現に取り組んできた。水をかけるとかえって激しく燃えたという記述から生石灰と燃焼物との混合物説、黒色火薬にも用いられる硝石(硝酸カリウム)説、石油を主成分とする説など様々である。個人的には発射する際サイフォンを使って発射していたという記述や発射の前に発射装置を火で暖めていたという記述から石油などの可燃液体を発火点まで熱し、空気中に放出して酸素と反応させて自然発火をさせたものではないかと考える。

 ビサンティン帝国が初めてギリシャの火を使用したのは674年から678年にかけて首都コンスタンチノープルがイスラム帝国(ウマイヤ朝)に包囲された際である。ギリシャの火が兵器として完成したのは672年頃と言われ、ぎりぎりのタイミングで間に合った兵器であった。その後717~718年の第二次コンスタンチノープル包囲の際もイスラムの軍船にギリシャの火は発射されている。イスラム帝国にとってこの敗戦の痛手は大きく、海軍の軍事バランスが崩れたことによりビサンティン帝国の復興が可能になったのである。
 その後海軍の反乱の際に数度ギリシャの火は使用されたことが記録に残るが、11世紀を境にギリシャの火の使用は認められなくなる。1203年の第四次十字軍がコンスタンチノープルを陥落させラテン帝国を建国しているが、この時もギリシャの火は使用されず、火を放った火船を船団に突入させているにとどまっている。ギリシャの火がどうして使用されなくなったのは謎だが、余りに機密保持を守ったため、製造方法が分からなくなってしまったという説や、領土の縮小により材料の入手ができなくなったためという説があげられている。

 それでも「ギリシャの火」は名前だけで各国海軍の恐怖の的になっていた。国力が衰えた後も長らく帝国が存在し得た理由の一つに「ギリシャの火」の名前があったためだろう。1453年オスマン帝国によりコンスタンチノープルは陥落するが、この戦いでもオスマン帝国海軍はビサンティン帝国海軍を圧倒することができず、コンスタンチノープル陥落後脱出を計ったビサンティン海軍を完全に防止することができなかった。この艦隊の突破でイタリア人傭兵ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴや多くの知識人がコンスタンチノープルを脱出している(もっともジュスティニアーニは傷の悪化で数日後に亡くなっている)オスマン海軍が積極的な追撃を行えば数的には劣性だったビサンティン海軍は全滅していたろう。それを防止したのがすでに消滅していた「ギリシャの火」の名前であった。この脱出した人々がイタリアで「ルネサンス」の一翼を担うことを考えると、ギリシャの火はビサンティン帝国滅亡後まで戦略兵器であったと言えるのではないだろうか。
by narutyan9801 | 2013-05-10 10:19 | 妄想(軍事)