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鼈の独り言(妄想編)

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隠者ピエール ~エルサレム奪還を呼びかけた彼は聖地への使徒か?煽動者か?~

 1095年11月フランス内陸の街クルレモンで行われたクルレモン教会会議で時の教皇ウルバヌスⅡ世が聖地エルサレムの奪還を呼びかける演説を行った。この演説によりヨーロッパ各所で十字軍派遣の熱気が高まっていった。この熱気は民衆をも巻き込み、軍隊に加わっていない一般民衆も聖地エルサレムを目指す者が現れる。こうした民衆が集い、エルサレムを目指す集団が形成された。世に言う「民衆十字軍」である。この民衆十字軍の中に一人の修道士の姿があった。今回は民衆十字軍を率いエルサレムへ導こうとした「隠者ピエール」を考察してみたい。

 隠者ピエールの生年は分かっていない。フランス北部、アミアン周辺で修道士として修行していたと言われている。伝説では彼は聖地巡礼を目指したが、小アジアでセルジューク朝の兵士に暴行を受け聖地巡礼を諦めたと言われている。クルレモン教会会議にも参加していたという説があるが定かではない。彼の行動が記録上に見えてくるのは教会会議の後からである。

 クルレモン教会会議終了後、エルサレム奪還という言葉は民衆をも魅了していた。ピエールはそれまでの隠遁生活を改め、街に出て辻説法を行うようになる。彼は痩せており背も低かったが豊かな顎髭と大きな声を持ち、民衆に語りかける弁説は巧みでたちまちアミアンで民衆の支持を受けるようになる。送られた喜捨を彼はすべて貧しい人々に与え、更に多くの声望を集めたピエールの元へはいつしかエルサレムを共に目指そうとする人々が集まり、その数は10万人に達していた。この民衆の支持に推され彼は独自に聖地へ目指すことを決意する。

 「民衆十字軍」という名前からは本当に民衆のみが聖地へ向かったという印象を与えかねないが、彼の元へは各地の騎士階級の人物や小領主などの軍隊経験者も居り、全くの烏合の衆ではなかった。しかし多くは軍隊の経験はおろか、生まれた土地を初めて離れるものも多く、また目的もエルサレムへの巡礼と考える者から異教徒を滅ぼすための聖戦と考える者など統一が取れなかった。それが最終的に民衆十字軍を悲劇に追い込むことになる。

 ウルバヌスⅡ世は聖母被昇天日の1096年8月15日を期して各国の軍が出発することを計画していた。しかし民衆十字軍はそれに先立つ1096年春に隠者ピエールに率いられフランスを出発する。4月12日にドイツのケルンに到着したピエールはここでドイツの人々にも民衆十字軍参加を呼びかけるため留まろうとするが一部の者たちはゴーティエ・サンザヴォワール(無一文のゴーディエ)の指揮の下出発してしまう。ピエールは4月20日にケルンを出発。彼には4万人の民衆を引き連れていた。さらにピエールの一行の後にゴットシャルクやフォルクマーらの説教師、ライニンゲン伯エミッヒなどに率いられた人々が続くが、彼らはキリスト教徒から見ると異教徒であるユダヤ教徒を虐殺しつつ行軍し、遂にはハンガリー王国内で報復を受け、壊滅している。

 ピエール直属の一行は大きな軋轢を起こさずハンガリーを通過しようとするが、ハンガリーとビサンティン帝国の国境のセムリンで先発した部隊の甲冑が城壁に晒されているのを見、さらに市内で小競り合いの末ピエールの制止も聞かずハンガリーのセムリン駐留部隊と全面戦争に陥る。数で勝る民衆十字軍はセムリンを占拠、さらにビサンティン帝国側の国境の街ベオグラードにも攻め込むが、ビサンティン守備隊の反撃に遭い一万人がここで犠牲になってしまう。その後ビサンティン帝国側の先導によりビサンティン領内を通行する許可が出、8月初旬にビサンティン帝国の首都コンスタンチノープルの郊外に到着し、先着していた無一文のゴーティエの先発隊と合流する。この時点で出発時10万人を数えた民衆十字軍は4万人を割り込むまでに激減していた。

 一方、民衆十字軍を迎えたビサンティン側もこの事態に苦慮していた。ビサンティン皇帝アレクシオスⅠ世コムネノスはローマ教皇へ「傭兵募集の仲介」を頼んだだけであり、その目的もエルサレム奪回など意図しておらず、コンスタンチノープル対岸の小アジア奪還が目的であった。そしてアレクシオスⅠ世が出した答えは「穏便にボスポラス海峡を渡らせてしまう」ということだった。民衆十字軍を領内に留めておくことの不安要素や食料などの援助負担を考えて「対岸の敵領内に居てもらおう」ということだったのだろう。もし民衆十字軍が敵であるルーム・セルジューク朝を滅ぼしてしまえばそれはそれで重畳、というところだろうか。ともかくアレクシオスはピエールなど首脳部に十字軍本隊到着を待ち合流後に行軍を再開するように指示し民衆十字軍はボスポラス海峡を渡り小アジアに進出する。
 小アジアに渡った後、民衆十字軍は内紛が起こり分裂する。敵地に足を踏み入れてしまった以上、彼らに「敵地での略奪」という当時の軍隊の正当な報酬を我慢させることはできなかったのだろう。ピエールの意向は無視され、指揮の及ばなくなった民衆十字軍は我先に小アジアを進撃、略奪をして行くがやがてルーム・セルジューク朝の反撃を受け危険な状況になる。ピエールは事態を打開するためにコンスタンチノープルに引き返すが、救援に駆けつけたビサンティン帝国軍に数千人が救出されただけであり、無一文のゴーティエなど主立った指導者を失った民衆十字軍はここでほぼ壊滅してしまう。

 コンスタンチノープルに帰還できた民衆十字軍はここで後から到着した民衆と合流し、再度ピエールの指揮の下十字軍本隊と共にエルサレムへ向けて進発する。ピエールの声望はなお絶大なものがあり、困難な進軍などでは軍隊を奮い立たせる演説を行うなど貢献した記録も残るが、純軍事的な貢献はほとんどできなかったというのが実情である。それでもムスリム軍の足並みの悪さにも助けられ、第一回十字軍は1099年7月にエルサレムを陥落させ、聖地奪還を成功させる。エルサレム陥落前後にピエールもエルサレムに居た記録が残るが、その年の内にエルサレムを去ってしまったらしい。その後地中海に面したラタキアに立ち寄った記録を最後にピエールの確かな記録は途絶えてしまう。

 結果的に見れば隠者ピエールが第一回十字軍で担った役割は民衆の十字軍への参加を呼びかけたことが最大の功績となろう。ウルバヌス二世の演説が確かに十字軍の発端となったことは事実であるが、ピエールのような直接民衆に語りかける存在が媒介したからこそヨーロッパ全土が二世紀以上にわたり十字軍に熱狂したのだと思える。しかし「聖地奪還」という行為は自分を信じ、集った人々が次々に倒れる悲劇を生み出してしまった。その贖罪の思いから彼は再度隠遁の道を選んでしまったのではないかと思える。彼がエルサレムに残ってしまえば、何かしらの地位に「祭り上げられる」ことは必定だったろう。それを避けるため、そして死んでいった人々への祈りを捧げるため、彼は人知れず聖地を去っていった。そんな気がしてならない。
by narutyan9801 | 2013-05-08 10:45 | 妄想(人物)