人間は社会で決められたルールを犯せばその罪を償う責務を負わなければならない。その罪を償う方法として最もポピュラーなのが「懲役」であり罪に応じて一定期間収監されることになるわけであるが、中にはそこから脱走を試みようとするものもいる。もちろんほとんどの場合脱走できずに終わるのであるが、中には数度の脱走を重ねる常習犯という者も存在するのである。今回はそんな「脱走犯」でもとりわけ有名な二人、「明治の脱走王」西川寅吉と「昭和の脱走王」白鳥由栄を考察したい
・西川寅吉
西川寅吉は安政元年(1854年)三重県生まれ、14歳の時に賭博絡みで殺された叔父の仇討ちとして相手に切りつけ、さらにその相手の自宅に放火した罪で無期懲役の刑を受け受刑することになる。まだ明治になって間もない時代で仇討ちを行った西川は刑務所内の受けは良かったが、仇討ちを行った人物が死ななかったことを知った西川は他の受刑者の助けを借り刑務所を脱走するが、すぐに連れ戻される。しかし西川は諦めず、再度脱走し相手を捜し賭博師として全国の賭場を回るようになるが、再度捕まり今度は秋田の刑務所に収監される。
秋田でもまだ仇討ちを諦めなかった西川は三度目の脱走を試み、仇討ちの相手を求めて三重へ向かうが、静岡県で三度目の捕縛。この際警察の追跡から逃亡中五寸釘が打ち込まれた板を踏んでしまい、釘が足を貫通してしまうが釘が突き刺さった状態で逃亡を続けたという伝説が生まれ「五寸釘寅吉」の異名を奉られるようになる。
西川は三度の逃亡歴から今度は東京の小菅を経由して北海道の樺戸集治監に送られたがここでも脱走、逃亡を重ねるが熊本で捕縛され、北海道に連れ戻され空知集治監へ収監される。ここで西川に対して熱心に仇討ちを諦め、罪に服すよう看守に諭され、西川はついに脱獄を諦める。その後網走刑務所に移された西川は模範囚として服役する。西川の刑期は脱走や脱走中の罪で雪だるま式に膨らんでいたが模範囚としての信用や年齢が考慮され大正13年(1924年)仮釈放となる。最初の収監から実に57年の月日が経っていた。釈放後の西川はその経歴を語る興業をして生計を立て、晩年は逃亡中に出来た息子に引き取られ故郷の三重で暮らし、昭和16年(1941年)87歳亡くなっている。
・白鳥由栄
白鳥由栄は明治41年(1907年)青森県生まれ、1933年に仲間数人と強盗殺人を犯し、二年後に自首するが収監された青森刑務所の待遇が劣悪で抗議をしたところ懲罰を受け、同刑務所を脱走する。所内で拾った針金を曲げて合鍵を作っての脱走だった。
一度目の脱走は短時間で終わり、秋田刑務所に再収監されるが、ここでも所内で拾ったブリキ板と釘で金鋸を制作し鉄格子を切断して脱走。しかしこれも短時間で捕縛される。
再度収監されることになった白鳥は網走刑務所に収監される。ここでは常時手鎖着用、週二回の入浴でも鎖は外さず数人の看守が見張った状態で入浴させるなどの徹底した監視体制を取るが、ここでも白鳥は脱走を試みる。食事の際に出される味噌汁を口に含み、看守の隙をついて手鎖と部屋の鉄格子の溶接部分に吹きかけ腐食を促し脱走したという伝説が残っている。網走刑務所を脱走した白鳥は二年ほど潜伏する。最後は畑泥棒を試みようとして農家に見つかり、格闘の末捕縛されるが白鳥の反撃で一人が死亡する殺人事件を引き起こしてしまう。
再捕縛された白鳥は札幌刑務所に収監されるが、脱走中の殺人事件で死刑の求刑を受けたために4度目の脱走を決意、6人の監視体制の隙をついてトンネルを掘り脱走する。脱走中偶然出会った警官からタバコをもらった白鳥はあっさりとその警官に自分が脱獄囚であると自首し、再び監獄に戻ることになる。
審議が再開され札幌高裁では白鳥の正当防衛が認められ白鳥はこの事件で懲役20年が求刑される(この間に日本国憲法が発布、施行された影響もあるかと思われる)東京の府中刑務所で服役した白鳥は模範囚として刑に服し1961年に仮出所。その後は静かに過ごし1979年に72歳で亡くなる。死後その一生がNHKでドラマ化されている。
西川と白鳥はいくつかの共通点がある。二人とも人並みはずれた体力と気力を持っており、脱獄や逃亡中に想像を超えた行動で翻弄している。二人とも網走刑務所に収監されている(西川は出獄まで網走刑務所で模範囚としてすごしているが、白鳥は網走刑務所を脱走している)などであるが、最大の共通点は収監の途中で看守や警官の説得に耳を貸すような素直な一面を持っていたことである。両人とも脱走を諦めたのちは素直に刑に服す純朴な心を逃亡や監視下の服役でも失わなかった。これを考えるともし二人が人生の早い段階で脱走、逃亡を諦め罪に服していたら出所後何かしらのことができたような気がする。二人には「脱獄王」とは違う別の称号が奉られた可能性はゼロではなかったことを考えると少し残念である。