鼈の独り言(妄想編)

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グラマンF8Fベアキャット ~ライバルを失った最強のレシプロ艦上戦闘機~

 古来兵器というものはたいてい目標になる別の兵器があり、それを凌駕すべく開発が進められるものである。中には戦術の概念を覆すような対抗相手が存在せずに開発される兵器(例としては塹壕突破を目的とした戦車など)も存在するが、それとてすぐさま対抗する兵器が生み出されることになる。いうなれば兵器開発は対抗兵器の生み出し合いと言ってもいい。そのため対抗兵器が突然消失してしまうと、優れた兵器でも用いられることなく消えてしまうことがある。今回はライバルの消失によって活躍することなく終わった悲劇の名戦闘機「グラマンF8Fベアキャット」を考察したい。

 ベアキャットの開発開始は1943年11月からである。9月にマーカス島空襲によりF6Fヘルキャットが初陣を飾ってからわずか2ヶ月後には後継機種の開発が始まったことになる。開発のコンセプトは「ヘルキャットよりも小型の機体により強力なエンジンを搭載した戦闘機」というところであろうか。
 「ベアキャットは零戦に勝る格闘性能を得ようとするために小型の機体になった」という意見を目にするが、機体の小型化の目的は米海軍の戦略の変化のためであったと思われる。米海軍の艦上機は高性能のカタパルトのおかげで小型の空母でも発艦が可能となり、必ずしも大型空母を配備しなくても艦上機の運用が可能になった。大型空母は一隻あたりの打撃力は大きいが、その分喪失した場合の戦力低下は大きく危険海域の派遣は慎重にならざるを得ない。また小型空母を多数備えることは攻撃を受けた際のリスク分散の効果もある。たとえ甲板に装甲を張ったとしても爆弾一発の当たりどころが悪ければ戦力喪失になりかねない空母は大型艦一隻を配備するよりも小型艦複数を配置した方が被害を減らせる可能性が高かった。しかしF6Fヘルキャットは機体が大きすぎ、小型空母での運用に難があったのである。これを解決すべく開発が行われたのがベアキャットになる。ただ、開発において運動性能のよい日本軍戦闘機を完全に無視するわけにはいかず、格闘性能も配慮されていたと考えて間違いは無いだろう。

 ベアキャットは開発スタートから9ヶ月後の1944年8月には試作機の初飛行を行っている。戦時下とはいえ新型戦闘機の開発では異例の早さである。特にエンジンに関してはプラット&ホイットニー社の技術信頼度が高くトラブルはほとんど生じなかったと言われている。戦争後半の日本軍戦闘機開発では常にエンジンがネックとなり(エンジンがネックにならなかったのは陸軍の五式戦ぐらいか)同じアメリカ軍でもB29のようにエンジンで苦労した軍用機も多い中ベアキャットは恵まれていたといえる。機体の特徴としてエンジン直径に合わせたスリムな胴体が上げられる。それまでの米艦上戦闘機のF4F、F6Fとはまったく印象の違うスリムな胴体は精悍な印象を与えることになった。反面武装に関しては初期型が12.7mm機銃4門とF6Fより2門減らされている。ベアキャットが零戦よりも小さな機体になることに配慮しての武装削減であろう。なおベアキャットの後期生産型では20mm機銃4門を装備することになるが、これは奇しくも日本海軍最後の戦闘機紫電21型(通称紫電改)と同じ武装である。

 こうして急ピッチで戦力化を急いだベアキャットの最初の実戦部隊は1945年夏に実戦配備されるが、このベアキャット隊を乗せた空母が日本に向かって航行中に日本は連合国に降伏を行う。これによりベアキャットは日本軍戦闘機との空中戦を行う機会を永遠に失ってしまった。そしてここからベアキャットの運命が大きく変わることになるのである。

 第二次大戦末期にはすでにジェット機が実用段階に入っていた。グラマン社でも艦上ジェット戦闘機の開発を進めており1947年には最初の艦上ジェット戦闘機F9Fパンサーが初飛行を行っている。そして1950年の朝鮮戦争勃発時にはすでに艦上戦闘機の主力はジェット戦闘機に置き代わっていたのである。
 それでも開発間もないジェット戦闘機は搭載量が少なく滞空時間も短いといった欠点があり、その穴を埋めるべくレシプロ機が「戦闘爆撃機」として空母には搭載されていた。しかしその搭載機は「ベアキャット」ではなく「F4Uコルセア」だったのである。
 初飛行がベアキャットより4年も早いコルセアは、純粋に制空戦闘任務ではベアキャットの比ではなかったろう。しかしベアキャットは絞った機体の為、爆弾搭載量や航続距離が小さくなってしまったという欠点があった。このため地上攻撃には向かず、空戦能力は低いものの隊地支援にも有用なコルセアに補助戦闘機の座を譲らねばなかなかったのである。コルセアは朝鮮戦争終盤まで実に10年以上も量産されるが、ベアキャットはコルセアの1/10の量産数に留まり、1952年にはアメリカ軍の実戦部隊から退役することになる。結局アメリカ海軍でベアキャットが実戦に用いられることはなかったのであった。

 アメリカ海軍で役目を終えたベアキャットはフランスに供与され、第一次インドシナ戦争で実戦に投入される。しかしここでも制空戦闘は無く、もっぱら対地攻撃機としての運用だった。このため搭載量の問題や航続距離がネックとなり、また空母搭載が前提であったため地上前線基地での運用は整備面や離発着装置の脆弱さも相まって評判は芳しくなかった。第一次インドシナ戦争後南ベトナム空軍では1959年までフランスから引き継いだ機体が運用され、他にタイでも1963年まで運用されたのを最後にベアキャットは軍務から完全に引退する。1969年のサッカー戦争でレシプロ機同士の最後の空中戦が行われたが、このときホンジュラス空軍のソト大尉が駆ったレシプロ機はコルセアであった。ベアキャットは最後の空中戦の栄誉もコルセアに奪われてしまったのである。

 こうして軍務ではコルセアに「完敗」してしまったベアキャットであるが、軍務から退いた後民間に払い下げられた機体に思わぬ活躍の場が与えられる。ベアキャットは小型の機体に大馬力のエンジンを搭載しており、また直線で形成された主翼は改修をしやすかった。このため民間でアクロバット飛行に用いられたり、レシプロ機の速度を競うエアレース用に改造されて用いられる機体もあった。「逆ガル翼」のコルセアはさすがに改造には向かず、ベアキャットはF-51マスタングと並んでエアレース機として現在も人気が高い。そして現在単発レシプロ機の速度記録を持っているのがベアキャットを改造した「レア・ベア号」(1989年8月21日 時速850.26km/hを記録)である。レシプロ機最高速度の勲章は空中戦の機会を得ずに消えていったベアキャット達へのせめてもの慰めであろうか。

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                 グラマンF8F”ベアキャット”空母モンテレー所属機
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by narutyan9801 | 2013-04-15 08:42 | 妄想(軍事) | Comments(0)