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鼈の独り言(妄想編)

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敵よりも味方を殺したと呼ばれた男 ~ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ~

 戦争の究極の目的は敵を屈服させることである。屈服の方法はそれこそ星の数ほどあるが、一番単純なのは敵の戦力を消耗させることである。そして敵に戦力を消耗させる最も単純な方法となると、戦闘で敵の戦力を削ぐことになるだろう。戦闘で敵戦力の消耗を強いるとき、味方の損害が敵よりも大きくなると予想されても、あえて攻撃をかけるという状況が戦史上幾つか見受けられる。今回は何度も味方に敵を上回る出血を強いながら、ついに強敵を降伏させた男、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフのお話である。

 ジューコフは1896年生まれ、生家は貧しく、少年の頃からモスクワに働きに出ていたが、第一次大戦の勃発により1915年徴兵される。この時ジューコフは騎兵連隊に配属されている。後に彼は戦力の機動運用を得意とするが、騎兵連隊に所属された影響が大きかったと思われる。
 ロシア10月革命が起こるとジューコフはソ連共産党に加入する。ロシア内戦で活躍した彼は次第に昇進するが、1937年からの赤軍粛正を受けてジューコフは1938年モンゴル軍集団の司令官に就任、ここでノモンハン事件を戦うことになる。
 ジューコフは事件勃発後十分な軍備の集積を待ち、機械化歩兵と戦車部隊の連携による機動戦により日本軍に大打撃を与え、撤退に追い込むことに成功する。この機械化部隊の大規模な運用はジューコフが初めて試みたと言えるが、世界の軍事関係者には一国境紛争の局地戦ととらえられ注目されることはなかった。また後年発掘された資料からはソ連軍の損害は決して小さいものではなかったことが分かっている。この頃すでにジューコフは「勝利は双方の損害の比ではなく、勝利条件を満たしたものである」との認識であったことがうかがえる。

 ノモンハンの功績によりジューコフはソ連軍中枢に返り咲き、1941年1月には赤軍参謀総長に就任し、独ソ戦を迎えることになる。緒戦でドイツ軍の電撃作戦を食い止められなかったソ連軍は後退、ジューコフは包囲されたロシア時代の旧都レニングラードの防衛の指揮官に着任する。着任したジューコフはレニングラードの防御を徹底させるとともに、市内にある軍需工場を閉鎖せずに戦闘中も稼働させ兵器の製造を続行させる。生産された兵器は可能な限り鉄道で輸送され、鉄道がドイツ軍によって占拠されると、空輸可能な生産兵器は飛行機により輸送された。この輸送された兵器はモスクワ攻防戦で大きな力となる。一方でレニングラード市内は極度の物資不足に陥り、餓死者、凍死者が相次ぐようになる。食料のパンのかさを増やすため、パン生地におがくずを混ぜて焼いたり、革製品を食料にするなどされたが、最終的に十数万人が餓死、凍死したと言われている。11月に入るとソ連軍はモスクワ前面に迫るドイツ軍の進撃を防止するため、極東に配備されていた戦力を次々と呼び寄せ、戦線に投入している。ドイツ軍のモスクワ侵攻を防いだのは冬将軍の到来と共にジューコフの緻密な輸送、部隊展開にあったと言われている。一方でドイツ軍の侵攻を食い止めるためにソ連軍は不利な状態であっても損害を省みず戦線に投入されたため、ドイツ軍の侵攻を防止させたものの翌年春にはソ連軍の反撃も力尽き、モスクワ前面の独ソ戦線はツモレンスク付近で約2年間の持久戦になる。

 1941年~42年の冬季期間にドイツ軍の進撃を阻んだジューコフは42年8月にソ連軍最高司令官代理に任命され、攻防線の続いていたスターリングラードの防衛と、モスクワ前面に突出していたルジュフの攻略に乗り出す。スターリングラードではジューコフはスターリングラード攻防戦でドイツ第6軍を釘付けにし、その隙にドン川とヴォルガ川の河畔を防御していた弱体なルーマニア軍の撃破し、第6軍をスターリングラードで包囲する作戦を立案する。この作戦にスターリンはソ連軍の作戦遂行能力不足を不安視するが、ソ連軍の戦力を観察し実行可能としたジューコフの進言を入れ作戦を承認する。この包囲作戦は成功し、ドイツ軍の救出作戦も失敗した翌43年2月にドイツ第6軍は降伏し、ドイツ軍は大きな打撃を受ける。

 一方ルジュフではジューコフ自らが総指揮を執り奪回作戦が展開されたが、ドイツ軍は防御戦の名人モーデル上級大将旗下の部隊が頑強に抵抗する。結局ルジュフ奪回は失敗し、ソ連軍はスターリングラードのドイツ軍を上回る損害を受けたと言われている。この敗戦はソ連軍の士気に関わるとのことで戦後も長く封印され、実際の損害は未だに不明のままである。
 一方でルジュフ戦線でのドイツ軍の損害もまた大きく、戦線の縮小を迫られ翌年ドイツ軍はルジュフから撤退、実質的にソ連軍がルジュフを奪回したことになる。スターリングラードとの功績によりジューコフはソ連軍元帥に叙される。

 スターリングラードでの勝利に続き、ソ連軍は南方戦線で進撃を続けたが、次第に補給が滞り、そこをドイツ軍のマンシュタイン元帥に突かれ、大敗北を喫する。この攻勢失敗とルジュフとの損害の合計はおそらく同時期にドイツ軍が被った損害の数倍を超えていると言われている。このため43年夏のドイツ軍クルクス突出部への攻勢(ツィダデレ作戦)は攻勢を行う兵力が不足しドイツ軍を待ち伏せる戦術を採らざるを得なかった。ツィダデレ作戦でソ連軍が被った損耗も大きかったが、予備兵力の投入により反撃を行い同年秋にはキエフを奪回しさらに冬季には余勢をかってコルスン、カメネツ=ポドリスキーと二度包囲線滅作戦を展開するが、二度ともマンシュタイン元帥の指揮で包囲下のドイツ軍を取り逃がしスターリングラードと同じような包囲殲滅戦を行うことができなかった。しかしこの冬季戦でジューコフはドイツ軍の至宝、マンシュタイン元帥が作戦の是非をめぐってヒトラーと対立、解任されるいう大きな戦果を得ている。

 1944年6月22日、独ソ開戦3年目のこの日、ソ連軍は戦線全面での攻勢を開始する。三年間の戦いでドイツ軍は消耗し、更に2週間前のノルマンディー上陸により第二戦線が形成され、そちらへも戦力を抽出しなければならず、戦略的にも戦力的にもソ連軍が圧倒的有利に立った攻勢であった。兵力不足に陥ったドイツ軍は拠点に戦力を張り付け防御しようとするが、ソ連軍は拠点を避け進撃を最優先事項とした。それはかってドイツ軍が得意とした電撃戦であり、そしてジューコフがもっとも得意とした戦術だったであろう。独ソ開戦から三年、ジューコフとしては待ちに待った攻勢だったのではなかろうか。この「バグラチオン作戦」でドイツ軍は40万人以上の死傷者、10万人以上の捕虜を出した。対するソ連軍の死傷者も20万人に達したが、大きな戦闘ではおそらく初めてドイツ軍の死傷者を下回った戦いであったと思われる。なおこの戦いは短期間で多くの戦死者を出したということでギネスブックに記載されているそうである。

 「パグラチオン作戦」でドイツ軍の戦力を打ち砕いたソ連軍はすぐにドイツの首都ベルリンに進撃せず、戦後の影響力強化を狙い東方諸国への進撃を優先し、ベルリン攻略は1945年4月から開始される。その直前ジューコフは第1ロシア方面軍の指揮官に任ぜられる。これまで戦闘全般の統括に当たってきたジューコフにとって方面軍の指揮は降格人事とも取れるが、ベルリン一番乗りの栄誉をジューコフに与えたいというスターリンの意志による人事と言われている。ベルリンへの進撃の緒戦でジューコフは新兵器の使用を試みている。夜襲を試みた部隊の援護にサーチライトを照らしてドイツ軍を目眩ましにしようとしたのである。ただこのサーチライトは砲撃の煙で光が散乱し自軍がかえって目眩ましに陥り、敵に味方の姿をさらし出してしまいすぐに中止されている。結局2週間以上にわたるベルリン攻防戦の結果、5月1日の早朝ジューコフの元にヒトラー自決の知らせが届き、ベルリンの戦いは翌2日に終結する。戦後モスクワで挙行された戦勝パレードではスターリンに替わりジューコフが馬上からの閲兵を行っている。リハーサルでスターリンは馬から落馬し、嫌気がさしたスターリンが元騎兵であったジューコフに役を譲ったためと言われている。

 親密だったスターリンとの仲も戦後急速に冷却する。ジューコフは対独戦勝利の立役者としてその人気は独裁者スターリンを脅かすには十分だった。さすがに救国の英雄を葬ることはスターリンにも躊躇いがあったが、ジューコフは軍管区司令官という閑職に回される。この窮地を脱したのはスターリンの死であった。更にジューコフはスターリン死後の権力の移行を見極め、フルシチョフに接近し軍部での発言力を回復する。後にフルシチョフと軍備面での政争に破れ公職から引退するが、英雄としての発言力は最後まで維持し、1976年に生涯を終えている。

 独ソ戦でジューコフが果たした役割はきわめて大きく、その勝敗を左右した人物であったことは間違いない。その反面味方に多くの犠牲を強いたのも事実ではある。戦後政敵になったフルシチョフは回想録で「敵よりも味方を殺した方が多い」と批判している。独ソ戦の戦死者は諸説あってはっきりとした数字は分からないが死傷者数はソ連軍がドイツ軍の数倍に達するのは間違いないだろう。ただ「勝利」を得るためにはジューコフには味方に犠牲を強いるしか方法がなかったのかもしれない。独ソ開戦後のドイツ軍の装備、練度は当時のソ連軍では比較にならなかった。それを補うには人海戦術しかなく、味方に犠牲を強いると共に敵にも犠牲を強い、徐々に戦線を押し戻すしか術がなかったのではないだろうか?彼の本来の持ち味はノモンハンやパグラチオン作戦のような機動戦であり、持久戦は彼の得手ではなかったろう。それに耐え、最終的な勝利を手にした彼は、相当な忍耐を強いられた人物だったと思わざるを得ない。

 彼の回想録の中にモスクワ攻防戦のさなか、彼の指揮所にドイツ軍の特殊部隊が進入してきて彼を殺害しようとしたという記述があると何かの書き物で読んだことがある(ジューコフ元帥回顧録は絶版本で古本屋でもすごい値段がするので未読なんです)。実際にはそうした特殊作戦はなかったのだが、この記述は「俺のやったことは正しかった」と伝えたかった気持ちの表れではないか?とも思えるのである。
by narutyan9801 | 2013-03-04 09:06 | 妄想(人物)