鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

管仲 ~斉の桓公を覇者にした男~

 「水魚の交わり」という言葉がある。三国志で諸葛亮を迎え日ごとに親密になる劉備に不安を覚えた劉備の義兄弟関羽・張飛が劉備に不満を述べた際に劉備が口にした言葉が元になっていると言われている。中国において魚は多産の故男性の隠語として用いられることが多く、水と魚の仲は男女の仲であり、自分と義兄弟の仲には何も問題ないというのが水魚の交わりと言う言葉の持つ本当の意味であるが次第に意味合いが変化し現在では主従の親密さを表す言葉の意味も持っている。しかし人間の間柄というものは面白いもので主従の間が親密ではなくても大きな功績を残せる場合も多い。今回は以前取り上げた「斉の桓公」を覇者にした人物、管仲を考察したい。

 管仲は滁州(現在の安徽省滁州市)の出身、生年は詳しくは分かっていないが桓公より若干年上と思われる。生家は貧しかったが学問に秀でていた。若い頃に鮑叔と知り合い親密な仲となってゆく。後に管仲自身が述懐したところによると人生様々な岐路で鮑叔は管仲の為を思い管仲を立てることを第一に考えてくれた。鮑叔は自分の父母以上に私のことを理解してくれていたと語っている。やがて二人は斉に入り管仲は公子小白(後の桓公)鮑叔は公子糾に仕えることになるが二人の友情は変わらなかった。
 二人の公子と管仲・鮑叔の斉公を巡ってのいきさつは「斉の桓公」で述べた通りである。しかし鮑叔の取りなしで管仲を宰相に抜擢した桓公ではあったが管仲に対しては含むところがあったように見受ける。

 桓公の逸話にこのような話がある。
{桓公が家臣から詰問を受けると常に「それは管仲に聞け」と答えるので、ある家臣(宮中に侍らせた道化とも言われる)が「君主は楽ですね。すべて管仲任せで済むんですから」というと桓公は「あいつを宰相にするまでは苦労したのだから宰相にしたあとは楽をしてもいいだろう」と答えたという}
 聴きようによっては管仲に信頼を置いているようにもとらえ得るがどうも桓公と管仲の間にはしこりが最後まで残っていたように思える。桓公にとってみれば管仲は一度は自分を殺そうとした人物でありやはり「水魚の交わり」という訳にはいかず、それを管仲も感じ取っていたのではないだろうか?後年周王が管仲の功績を称え上卿に迎えようとしたが管仲が固持したのももしかしたら桓公との間を考えてのことかもしれない。

 しかし「水魚の交わり」というものにも弊害がある。劉備と諸葛亮の間でも国家戦略に背く劉備の私怨ともいえる夷陵の戦いを諸葛亮は防止することはできなかった。個人的な親密さは国家運営という点では弊害も生じる可能性があるのである。
 管仲が宰相に抜擢され最初に託された仕事は内政改革を断行することにあった。斉は始祖である太公望呂尚が封じられた際には民心を安定させることを優先し国内政策はかなり旧来のやり方を取り入れていたのである。塩の専売法など優れた点もあったが国内産業は伸び悩んでおり内乱での混乱がそれに拍車をかけていた状況であった。管仲は斉の国内の行政区を21に分割しその土地土地にあった産業の育成に取り組むよう行政整備を行う。併せて法の整備、賞罰の厳格化、住民の相互監視など厳しい統治も行っている。この改革が平和が保たれていた状態で断行されていたら怨嗟の声も上がったろうが混乱した斉にはこうした劇薬での治療が最も効果的だった。この改革で急速に国力を回復した斉は国内が安定すると積極的な外交活動を行う。鮑叔が言ったとおり管仲でなければなし得なかったことであったろう。しかし桓公はしばしば他の諸侯や周王朝をないがしろにした行動をとろうとする悪い癖があった。そんなとき管仲の意識は桓公その人よりも斉の国益の方に常に向けられており心証が悪くなるような讒言も時には厭わなかった。そして桓公も多少は疎ましく思いながらも管仲の讒言に正当性を見いだして従っていたのではないだろうか。私的な好意を加えないからこそ桓公と管仲は覇道の道を歩めたのだと個人的には考えている。

 宰相として桓公を補佐して約四十年、管仲は紀元前645年に亡くなっている。鮑叔との友情は終生変わらなかったといわれている。

[PR]
# by narutyan9801 | 2016-09-10 03:50 | 妄想(人物) | Comments(0)

宋の襄公 ~「宋襄の仁」に隠された思い?~

 日露戦争初期に日本軍の補給路を攻撃したウラジオストク巡洋艦隊は何度も日本軍の追跡を振り切っていたが1904年8月1日の蔚山沖海戦でついに日本海軍第二艦隊に補足される。この海戦でウラジオストク巡洋艦隊は巡洋艦リューリクが撃沈されロシア、グロモボーイも大破し艦隊としての行動能力を失うことになった。しかし日本海軍としては遁走した二隻の状態をすぐに把握できなかったこともあり戦果としては不満で、特に第二艦隊が追跡をあきらめた後リューリクの救助に向かったことが非難の対象になった。当時連合艦隊作戦参謀であった秋山真之中佐は第二艦隊のリューリク救助の行動を「宋襄の仁」という言葉を使って非難していることが司馬遼太郎著「坂の上の雲」に書かれている。この「宋襄の仁」は敵に対し無用の情けをかけることであるが、別に第二艦隊は戦闘を中止してまでリューリクの救助を行ったわけではない。しかし戦争全体の勝利に全身全霊を傾けていた秋山中佐にとっては腹に据えかねる行動だったのだろう。今回は「宋襄の仁」の古語を残した宋の襄公を考察したい。

 襄公の正確な生年は分かっていないがおそらく前回取り上げた斉の桓公よりも多少年下と思われる。彼は宋公である桓公(斉の桓公とは別の人物)の公子として生まれているが彼には異母兄の公子目夷(のちに子魚と名乗る)が居た。襄公は宋公を継ぐ際に兄に宋公の位を譲ろうとしたが父の桓公の反対を受け断念している。父の死後襄公は兄を宰相に就け政治の補佐役に抜擢している。このことから襄公は序列を重んじる性格だったように思える。

 襄公が宋公に就いた時期は現在の湖南・湖北付近に「楚」が建国し中原諸国を脅かしていた。楚が中原諸国に侵攻してくると当時覇を唱えていた斉の桓公が諸国に会盟を呼びかけ楚を迎撃することが常になっていた。宋も襄公の父の代から会盟に加わっていたが襄公は父の喪中でも会盟に参加するほど積極的であった。
 紀元前643年に斉の桓公が死去すると斉は後継者を巡り内乱状態となってしまう。この混乱に襄公はかって宋に滞在したことがある斉の公子昭を擁立し孝公として即位させ斉の内乱を収めることに成功するのである。この成功から自信を深めたのか四年後宿敵楚王を含めた会盟を執り行い覇者となることを楚王に認めさせている。この行為に兄である宰相目夷は国力が伴わないことであると反対したが襄公は聞き入れなかった。さらにこの年多くの諸侯を集めて会見を執り行おうとしたが、襄公の覇権を内心では認めていなかった楚の成王の意を受けた使者に監禁されてしまうのである。この時は諸侯の取りなして軟禁は解かれ襄公は帰国することができたが、この恥を注ぐべく襄公は楚討伐の準備を進め、この動きを察した楚が先に宋討伐へ動くことになる。
 楚の侵攻を受け襄公は泓水のほとりで楚軍を迎撃、やがて楚軍が現れ泓水を渡り始める。宰相の目夷は楚軍の渡河終了前に攻撃することを進言するが襄公はこの進言を退け楚軍が渡河を終えて陣容を整えた時点で攻撃を命じている。戦いは兵力に勝る楚軍の圧勝に終わり襄公自身も太ももに矢を受け負傷するほどの惨敗であった。
 合戦後襄公はなぜ楚軍の渡河終了前に攻撃を始めなかったのかとの問いに「君子は人が困窮しているときにつけ込んだりはしない」と答えたという。この答えを聞いた目夷は「戦いの道理が分かっていない。戦時と平時では道理が違う」と嘆息したという。

 相手の弱みにつけ込まないと言っているところを見るとおそらく襄公も上陸前後の陣容が整っていない状況で攻撃すれば有利だったことが分かっていたのだろう。それを行えなかったのには襄公の血筋が多少影響しているのではないか?と管理者は思うのである。
 襄公の生国宋は周王朝から封じられた斉、王朝の枠外から建国した楚とは違った成り立ちでできた国である。宋は前王朝である「殷」王朝の血筋(報じられたのは殷の最後の王紂王の子供だが謀反に荷担したため紂王の異母兄が改めて封じられた)を始祖としている。このため周王朝が封じた国とは思想、習慣が相容れないことが多く差別の対象になっていたと思われる節が見受けられる。たとえば北原白秋の詩に山田耕筰が曲を付けた唱歌「待ちぼうけ」。この歌詞は韓非子の旧来の伝承にしがみついている人を批判する説話を元にしているがこの場面は宋の国でのこととされている。他の中原の国からすれば宋は異質な国だったという印象を感じとれる逸話である。
 管理者の想像ではあるが、襄公は覇を唱える以上宋の国の印象を変える必要性を感じていたのではないだろうか?国の印象を変えるために敢えて不利な戦いを挑んでいったように思えるのである。しかしそれでも宋の印象を変えることはできずかえって「宋襄の仁」という異質さを強調される言葉を生んでしまったことは襄公も残念だったろう。

 泓水の戦いの後、晋の公子重耳が宋を訪れている。襄公は敗戦直後ではあったが重耳を手厚くもてなしている。しかし襄公は泓水の戦いで受けた傷が元で重耳の来訪後ほどなく亡くなってしまう。襄公の死後宋は泓水の戦いでの損害も回復せず国力が低下し襄公の死の五年後再び楚の侵攻を受けることになる。この時宋を救ったのが晋に帰国し晋の文公となっていた重耳の救援であった。その後もたびたび宋は楚の侵攻を受けることになるが晋は襄公から受けた恩義を忘れず援軍を送り続けそれは晋が内乱で分裂するまで続くことになる。襄公の思いは後世には伝わらなかったかもしれないが、文公にだけは伝えることができたのかもしれない。

[PR]
# by narutyan9801 | 2016-09-09 02:52 | 妄想(人物) | Comments(0)

斉の桓公 ~覇者の人生につきまとったのは棺桶だった~

 マカロニ・ウェスタン映画の傑作「荒野の用心棒」のラストシーン、宿敵ラモンを倒したクリント・イーストウッド演じる流れ者ガンマンのジョーがサン・ミゲルの町を去ってゆく…。銃撃戦後の殺伐とした雰囲気であるがそんな雰囲気をいい意味でぶち壊すのは射殺された男たちの棺桶を作るために身長を測って読み取る棺桶屋の声であった。棺桶はほとんどの人間が人生を終えた際に入る器であるが死者を抱くが故に色々と感情をかき立てる品物でもある。フランスの伝説的な女優サラ・ベルナールは就寝する際には棺桶の中に入って眠っていたと言われるし、江戸時代の演出家四代目鶴屋南北は作中によく棺桶を登場させている。今回は棺桶で覇者となり棺桶に入るのに難渋した覇者、斉の桓公を考察したい。

 桓公を語る前に覇者という言葉を説明しておきたい。我々の世代であれば世紀末覇者拳王を思い出す御仁も多いと思うが覇者とは中国の春秋時代、周王朝下の諸侯に与えられる尊号である。初期は周王朝を夷狄から守った者に対して授けられた称号であったが春秋時代になると国力を背景に他の覇者を周王の元に集め、合議を行う「会盟」を取り仕切った者を「覇者」と呼ぶようになる。斉の桓公は初めて「会盟」を取り仕切った覇者である。

 斉の桓公の生年は詳しく分かっていないがおそらく紀元前710年頃の生まれと思われる。諱は小白、彼には二人の兄がいて長兄が襄公として斉公の位に就くが、この襄公は性格が荒々しく気に入らない人物を次々と殺害したため小白と次兄の公子糾はそれぞれ莒国と魯へ亡命する。やがて襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺されるが、公孫無知もまもなく暗殺され斉公の座が空白になってしまう。このため斉の貴族たちは亡命していた二人の後継者のうち早く帰国した方に斉公についてもらうという、いわば斉公の椅子取りゲームを二人にしてもらうことにしたのである。
 
 小白の兄の公子糾は腹心の管仲を小白の帰路に待ち伏せさせ矢で射殺すよう命じ命令通り管仲は小白を射、小白は矢を腹に受けて倒れるのを確認して公子糾へ報告する。しかし小白は幸運にも帯の留め金に矢が当たり無事であった。小白と彼の師である鮑叔はこの状態を利用し護衛の兵を次の宿場で帰国させ、鮑叔牙は棺桶を用意させ小白の棺を一人で運んでいるよう偽装したのである。この策に公子糾はかかり帰国の足取りを緩め、その隙に棺桶に潜んでいた小白は先んじて帰国、斉公の地位に就き桓公と称することとなる。

 斉公に就いた桓公は帰国中の公子糾の一行を待ち伏せして急襲し撃退する。公子糾は魯国に逃げ込んだものの桓公の圧力で魯は公子糾を処刑、管仲は生け捕りにされ斉に連行されることになる。

 桓公は鮑叔牙の功績を評価し宰相の位に就くよう求めるが、鮑叔牙は「公がただ斉の君主だけでよいならば自分でも務まりますが、天下に覇を唱えるならば異才の人物を宰相につけなければなりません」と友人であり罪人として魯から連行されてきた管仲を宰相に推挙するのである。管仲を宰相にするのに桓公はかなり迷いがあったようであるが鮑叔牙の熱心な推挙もあり管仲を宰相に任命することになる。

 管仲を宰相に迎えた斉は政治、経済面の改革を行い国力の増大に成功する。元々斉は太公望呂尚が封じられた国であり他の国から人目置かれた国であった。斉の国力はすでに衰退を見せていた周王朝を凌ぎ諸侯は国家間の諸問題を桓公に裁定してもらうようになる。折しも長江流域では楚が建国され南方から周王朝や諸侯に圧力をかけ始めていた。桓公は諸侯に働きかけ楚を討ち、紀元前651年周王臨席の下諸侯を集め会盟を行い、歴史上初の覇者となったのである。桓公が会盟を行えた大きな理由に約定を違えない姿勢があったと言われている。公子糾をかくまった魯国と斉は国境を接している隣国同士であり魯の始祖は周王朝の始祖武王の甥である伯禽、斉の始祖は武王の軍師太公望とライバル同士、さらに公子をかくまっていたとなると国家間がしっくりするわけもなく桓公の即位後は何度も争っていたが国力は斉の方が上で魯は次第に追い詰められ、土地の割譲による講話を結ぶことになった。しかし講和締結の席上、魯の将軍曹沫が桓公に掴みかかり短剣を突きつけ割譲された土地の返還を求める椿事が起こったのである。その場ではこの条件を呑んだ桓公であるが後になってこの講和を破棄し土地の返還を拒否しようとしたのである。これを諫めたのは管仲であった。彼の考えでは脅しの結果であっても約定を違えない姿勢をとることが諸侯たちへ信頼を与えることにになり結果的に斉に利益をもたらすであろうという読みがあったのである。桓公も熟慮の末管仲の考えが正しいと思い直し土地の返還に応じたのである。この結果が会盟の成功に大いに貢献したと思われる。

 会盟を行った桓公は次第に増長し君子だけが執り行えるという封禅の儀式を行おうとするがこれを諫めたのも管仲であった。桓公と管仲の間は堅い信頼で結ばれていた訳ではなさそうであるが桓公は管仲をその死まで宰相の位に留まらせている。

 紀元前645年に管仲がなくなると桓公を諫める者はいなくなり桓公は放蕩に明け暮れ後継者の選定も曖昧になる。管仲の死から二年後桓公も病に倒れるが国内は後継者争いの混乱に突入してしまい病床の桓公を顧みる者はいなかった。桓公は紀元前643年10月8日に亡くなるが死後67日間も遺体は病床に横たえられたまま放置されたという。納棺後も翌年8月に息子太子昭が斉公に就くまで埋葬されず、ついには蛆虫が棺桶から這い出してきたと言われる。桓公の人生は花開くときも終焉も棺桶に左右された人生といっても過言ではないだろう。
e0287838_03331475.jpg
   斉の桓公。春秋五覇と言われる覇者の中でも晋の文公と並んで上位に置かれることが多い。

[PR]
# by narutyan9801 | 2016-09-07 03:36 | 妄想(人物) | Comments(0)

胡椒 ~古代ローマ人も愛した香辛料の王様~

 古代ローマ帝国では様々な食材が料理され食された記録が残っているが、ウナギもまたローマ人が好んだ食材である。その調理法がまた興味深い。背開きにしたウナギの身を適当な大きさにぶつ切りにして串を打ち、炭火でじっくりと炙りガルムという魚醤に蜂蜜やナツメヤシの実などを加えた甘辛いタレをつけて食していた。タレの製法やウナギの処理などに多少の差異はあるが、基本的には日本の江戸時代後期に考案された「蒲焼き」と同じ料理である。ところでウナギは脂っこい食材であり食する際には味を引き締めるための「薬味」が欲しいところである。日本では自生していた山椒を薬味に用いていたが古代ローマ帝国では世界帝国らしく遠国から輸入した薬味を用いていた。今回は古代ローマ人も愛した香辛料「胡椒」を考察したい。

 胡椒はインド原産のつる性の植物で種子を香辛料として用いる。この種子は発芽率が悪く胡椒の栽培を行う場合は接木栽培を行うことになる。接木をしてから果実をつけるまでには数年かかり、またいわゆる連作障害が発生しやすく栽培にはかなりの労力がかかる植物である。

 胡椒の実は完熟前には表皮は緑色、完熟すると赤色を帯びる。この状態のものをそれぞれ青胡椒、赤胡椒と呼んで産地ではこれを香辛料や食材として用いることも多いが、日本でよく目にする胡椒は青胡椒を乾燥させた黒胡椒、赤胡椒を乾燥させ表皮を剥いだ白胡椒である。胡椒の種類それぞれ風味が違い、食材との相性によって使い分けられている。

 胡椒の風味の主成分はヒペリンという物質である。ヒペリンには味覚を刺激する効用のほかにも抗菌・防腐・防虫の作用があり、胡椒は香辛料だけではなく食料の防腐剤として利用されてきたのである。またピペリンには薬効作用もあり下痢、嘔吐、腹痛などに胡椒が処方されてきていた。最近の研究では抗がん作用、抗酸化作用にも効果があるといわれている。また生体の代謝を一時的に阻害し薬などの薬効を向上させる効果が期待できるとの研究もある。

 胡椒がいつから香辛料として用いられているかは詳しくは分からないが紀元前4世紀のギリシャの書物には胡椒の記載がありこれ以前から地中海世界では胡椒を輸入していたと考えられる。ローマ帝国が栄えていた時代は高級品ではあるがそれなりに安定した量の輸入があったと思われるがローマ帝国の衰退により胡椒の価値は暴騰し西ローマ帝国との同盟交渉を一方的に破棄された西ゴート王アラリック一世は賠償として黄金とともに胡椒を要求したといわれている。

 7世紀になると地中海の制海権はイスラム諸国が制圧することになり胡椒はますます入手が困難な品物になる。中世ヨーロッパでは胡椒が貨幣の代わりに用いられたり金と胡椒が同重量で取引されたと言われている。造船や航海技術の発達によるいわゆる大航海時代を迎えるとヨーロッパ諸国は胡椒を求めて航路の開拓を進めるようになる。かのコロンブスも西回りでインドへ向かう航海を計画した際、スペイン王室と交わした契約の中に「インドに到達した暁には胡椒を持ち帰ること」との条文があったと言われている。彼は現在の西インド諸島にたどり着くがそこは胡椒の産地ではなかった。コロンブスは胡椒がどういう植物なのかよく分からずたどり着いた地にあった口にすると刺激のある植物を「胡椒」として持ち帰ったのである。これが胡椒と同じように人類の食物史に大きな影響を与えることになる「RED PEPPER」唐辛子である。

 日本に胡椒が伝来したのは6世紀後半から7世紀にかけてと考えられていて7世紀半ばの正倉院に納められた品々の目録には「胡椒」の記載がある。胡椒は最初は生薬として用いられていたが平安時代には調味料として用いられるようになる。胡椒は中国や琉球を介して比較的安定した量が輸入され唐辛子が日本に伝わる以前は山椒と並んで用いられた香辛料であった。唐辛子は日本でも栽培可能で輸入に頼らざるを得ない胡椒に置き換わって唐辛子が用いられるようになったと考えられている。

 現在胡椒は原産地のインドだけでなく東南アジアでも栽培が盛んで世界各国どこでも入手可能な調味料の一つになっている。その反面胡椒栽培には手間がかかる割に実入りが少なく栽培放棄される農園もあったと言われている。ところが中国など新興国での需要が高まり近年胡椒の価格は高騰の兆しを見せているという。紀元前より富を生み出してきた胡椒は現在に至っても大きな価値を秘めているのである。
e0287838_217944.jpg


    胡椒の実。右の房は未成熟の実、左の赤みがかった実がやや成熟の進んだ実である。
[PR]
# by narutyan9801 | 2016-09-06 02:23 | 妄想(その他) | Comments(0)

給糧艦 伊良湖 ~開戦直前に竣工した二隻目の給糧艦~

 以前このブログでは旧日本海軍の給糧艦「間宮」を書いているが、間宮の竣工が1924年(大正十三年)であり長年日本海軍は給糧艦は間宮一隻のみ運用してきた。しかし日本海軍の規模が大きくなると間宮一隻の供給能力を超える補給の必要性が生じ始め、さらに戦争の足音が聞こえるようになると間宮の喪失という事態も配慮せねばならなくなってきた。日本海軍は間宮建造後も複数回給糧艦の建造計画をしてきたが二隻目の給糧艦が完成したのは太平洋戦争開戦の3日前であった。今回は日本海軍が保有した本格的な、そして最後(徴用による臨時的なものを除く)の給糧艦となった「伊良湖」を考察したい。

 伊良湖とはあまり聞きなれない名前であるが、愛知県にある「伊良湖水道」に因む命名である。渥美半島の先端にある「伊良湖岬」から神島の間の水路で一番狭い部分は幅1,200mほどしかないが、名古屋港など伊勢湾、三河湾と太平洋との海路が通り古くから船の通りが多い水路であった。先輩の「間宮」も間宮海峡からの命名であり正式決定はされてないようであるが給糧艦の命名はは海峡、水路の名前が基準になっていたようである。

 間宮は昭和十二年度からの建艦計画「③(マル3)計画」の追加分として計画されている。この計画は海軍軍縮条約が失効して初めての建艦計画であり、大和型戦艦や翔鶴型航空母艦など大型の新造艦が多く計画されている。ちなみに伊良湖の建造予算は当時の金額で400万円、大和型の予算が約1億800万円(ダミーを使っての流用追加予算もあるので実際はこれより多い)であるから約1/27である。あまりにスケールが違うので伊良湖の価格が高いか低いか評価するのは難しい。

 伊良湖は1940年(昭和十五年)5月30日に起工、翌41年(昭和十六年)12月5日に竣工している。間宮がクリッパー型の垂直な艦首であったのに対し伊良湖は弱いながらも二つのカーブがつながった「ダブルカーブドバウ」を持つ俊敏な外見をしている。外見上のもう一つの特徴は高い煙突である。これは伊良湖が重油を節約するために石炭専用のボイラーを搭載したため、煤煙に煤が入りそれが食料品にかかるのを防ぐための措置であった。これは確かに妙案ではあったろうが通商破壊戦が実行されれば敵に発見されやすくなるという問題点があり、事実後述するが伊良湖は潜水艦の雷撃で沈没に瀕する損害を被っている事実を考えると問題もあったと思える。

 伊良湖は竣工当日に連合艦隊に編入され翌月にはさっそくトラックやマーシャル諸島へ食糧の輸送任務を行っている。その後も輸送任務に従事し特にソロモン方面の戦いが激しくなると伊良湖は本土と前進基地であるトラックを何度も往復するようになる。この働きは敵である米軍にも察知され工作艦「明石」とともに重要目標として狙われるようになってゆくのである。

 工作艦「明石」は原材料の輸送を他艦に任せ自らはトラックに腰を据えて任務にあたれたのであるが、「伊良湖」は前線に食糧を運ぶのが任務であり当然潜水艦が遊弋する海域も航行しなければならなかった。そして1944年(昭和十九年)1月20日、トラックを出港して内地に帰投する「伊良湖」は米潜水艦「シードラゴン」の雷撃を受けてしまい、魚雷一本が右舷前方に命中する。この雷撃で艦首が水没するほどの浸水が生じるが伊良湖は奇跡的に沈没を逃れ内地で修理を行う。8月に修理を終えた伊良湖は再び食糧輸送の任務に就くが、すでに日本近海の航行も危険な状態になっていた。

 1944年9月にフィリピン方面の補給に従事した伊良湖は21日マニラ湾で空襲を受け損傷、コロン湾へ退避するが24日に再度空襲を受け大破着底してしまい、船体は放棄される。しかし放棄後も書類上は健在艦として登録され続けている。伊良湖が正式に除籍されたのは終戦後の1945年(昭和二十年)11月30日で軽巡洋艦北上と同じ日の除籍であった。伊良湖の船体は現在もコロン湾にあり、ダイビングスポットとして人気があるという。
e0287838_23224319.gif
 米潜水艦「シードラゴン」の雷撃で損傷した伊良湖。艦首はほとんど水面下に没し逆に艦尾は浮き上がっている。沈没寸前のように見えるが奇跡的に内地に帰還し修理の上再就航している。

[PR]
# by narutyan9801 | 2014-10-01 23:26 | 妄想(軍事) | Comments(1)

ハリー・オニール ~硫黄島で戦死した元メジャーリーガー~

 今週は太平洋戦争で戦死した四人の日本人野球選手のお話を書いたのだが、日本と戦ったアメリカでの野球選手の戦死者はメジャーリーグ経験者に限っていえばごく少数である。もちろんマイナーリーグや独立リーグ経験者での従軍者数は相当な人数になると思われるが、徴兵対象者を根こそぎ応召した日本と違いある種著名人であるメジャーリーガーを徴兵して戦地に送るリスクや、そもそもそこまでの兵力は必要なかったためと思われる。今回は数少ないメジャーリーガー戦死者の一人、ハリー・オニールを考察したい。

 ハリーは1917年にフィラデルフィアで生まれている。ゲティスバーグ大学時代彼は野球、フットボール、バスケットボールの選手として活躍、卒業後はフィラデルフィア・アスレチックスにマイナー契約で入団する。
 入団した年の7月にメジャー昇格し1939年7月23日のデトロイト・タイガース戦の終盤にキャッチャーのポジションに入りメジャーデビューを果たすことになる。この日の試合はアスレチックスが大差で負けておりいわゆる敗戦処理の出場であった。結局この試合でハリーに打順は回ってこず守備機会もなかったためハリーの出場は記録上は出場しただけの無記録である。そしてこの試合がハリーにとって唯一のメジャー出場になったのである。

 その後二年ハリーはアスレチックに所属するがメジャーリーグへの出場は果たせなかった。1941年にアスレチックスを退団したハリーは翌年海兵隊に入隊するのである。すでに太平洋戦争が勃発しており戦争の波は元メジャーリーガーの運命も左右する大きさになっていた。

 二年間の訓練後海兵中尉となったハリーは第4海兵師団第25海兵連隊に配属され歩兵戦闘の指揮を執ることになる。彼は初陣となるサイパン島の戦いで肩に負傷、後送される。そして傷が癒えたハリーが向かったのは硫黄島であった。 硫黄島の戦いで第四海兵師団は上陸作戦から参加、大きな損害を被る。上陸戦と硫黄島南の擂鉢山攻略で損耗した第四海兵師団はいったん後退し再編成を行った後、北方の日本軍陣地攻略を再開する。そして3月6日歩兵戦闘を指揮していたハリーに一発の銃弾が命中する。ハリーを撃ったのは日本軍の狙撃兵であると言われているが定かではない。この時ハリー・オニール27歳。

 ハリーは太平洋戦争で戦死した唯一のメジャーリーガーと言われている。

[PR]
# by narutyan9801 | 2014-09-26 23:50 | Comments(0)

嶋清一 ~海防艦と運命を共にした天才投手~

 いわゆる「甲子園大会(高校野球全国大会)」でノーヒットノーランが記録されると大きな話題となる。過去選抜高等学校野球大会では12回(完全試合2試合を含む)、全国高等学校野球選手権大会では23回達成されている。そしてノーヒットノーランを複数回達成した選手が一人だけ存在する。今回は現在まで唯一甲子園大会でノーヒットノーランを二回達成した投手、嶋清一を考察したい。

 嶋清一は1920年(大正九年)に和歌山県で生まれている。父親から同県出身で甲子園で活躍した小川正太郎の話を聞かされ野球に興味を持ったと言われている。小学校時代から地元の少年野球チームに所属していた嶋は海草中学校に進学すると一年生ながら一塁手として第21回中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に出場する。この時は初戦でこの大会の優勝校松山商と対戦して3対0で敗れている。大会後監督の指導で嶋は投手にコンバートされている。

 その後も嶋の所属する海草中学校は何度も甲子園に出場しているが、ベスト4が最高であった。ところが嶋にとって最後の甲子園となる第25回全国中等学校優勝野球大会で嶋は前人未到の快投を見せるのである。
 1回戦の対嘉義中戦は5-0、二回戦の対京都商戦が5-0、準々決勝の対米子中戦が3-0、準決勝の対島田商戦が8-0(ノーヒットノーラン)決勝の下関商戦が5-0(ノーヒットノーラン)と五試合すべてに先発し完投、全て完封で内二試合がノーヒットノーランという快挙であった。試合中相手の応援席から「これではとりつく『シマ』がない」という自虐的な駄洒落が漏れ、「海草の嶋か、嶋の海草か」という賛美の言葉がはやったという。大会前から嶋は高い評価を得ていたのだが肝心なところでコントロールを乱すメンタル面の弱点も指摘されていた。メンタル面に関しては後年様々な要因が指摘されているが、それを払しょくできたのは周囲の変化も大きかったが嶋本人の努力も大きかったと思われる。ちなみに嶋は通算6回甲子園に出場しているが、これは当時の中等学校が五年制であったためで規則上最高九回甲子園出場も可能であった。
 嶋の打ち立てた記録のうち、五試合連続完封と45イニング連続無失点は戦後第30回大会で福嶋一雄が達成する。また決勝でのノーヒットノーラン達成は59年後の第80回大会で松坂大輔が達成するが、現在(2014年)でも個人の複数ノーヒットノーラン及び同一大会での複数のノーヒットノーランを達成した人物は嶋ただ一人である。

 改装中学卒業後嶋は明治大学に進学し野球部に所属するが、野球部の雰囲気に馴染めなかったのか嶋の成績は改装中学時代に比べると見劣りするような状態になる。一時期大学を中退してプロ野球への転身を図るが周囲の説得により断念している。嶋本人はジャーナリストに興味を持ち朝日新聞の記者になりたいという夢を持っていたと伝わるが、その夢は戦争によって潰えてしまう。

 1944年の学徒出陣により嶋も海軍に応召、44年暮れに竣工した「第84号海防艦」乗り組みを命ぜられ南方に出陣、日本への最後の輸送船団となるヒ88J船団を護衛する任務に参加することになる。
 太平洋戦争の戦局はすでにフィリピンを奪還され南シナ海の制空・制海権も連合国側が掌握する状況になっていた。1945年2月の「北号作戦」で航空戦艦二隻を含む戦闘部隊が辛くも日本本土に帰還するが、この作戦の成功を受け南方に残存する稼働輸送船をかき集めて日本に帰還させる作戦が計画された。しかし速力の遅い輸送船が日本本土にたどり着くことはほぼ絶望的といってよく、無謀な作戦であったことは否めない。

 1945年(昭和二十年)3月19日にシンガポールを出港した船団は途中被害を受けつつも北上を続けていたが、3月29日未明にベトナム東方で第84号海防艦は米潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃を受けてしまう。魚雷命中直後に搭載してた爆雷が誘爆し瞬時に轟沈した言われ、嶋を含む乗員全員が戦死している。嶋清一この24歳。応召直前に恋愛結婚をした新妻を残しての戦死であった。

 嶋の記録は半ば忘れられた状況が続いたが、第80回大会の松坂大輔のノーヒットノーランがきっかけで再認知されるようになる。2008年に野球殿堂入り。その年の第90回全国高等学校野球選手権大会(記念大会)に表彰式が行われ、若くして戦死した天才投手が偲ばれている。

嶋清一―戦火に散った伝説の左腕

山本 暢俊/彩流社

嶋清一の真実―松坂大輔をしのぐ伝説左腕の軌跡

富永 俊治/アルマット




[PR]
# by narutyan9801 | 2014-09-26 00:02 | 妄想(人物) | Comments(0)

石丸進一 ~神風特別攻撃隊で散ったプロ野球選手~

 太平洋戦争中にいわゆる「特別攻撃隊」での戦死者は二千五百人を超えると言われている。戦死者のうち三割以上の人が「予備士官」と呼ばれる学徒出陣の士官たちであった。学業を断念して操縦桿を握りしめ、大空に散っていった約600名の中に元プロ野球選手の姿があった。今回は特攻に散ったプロ野球選手、石丸進一を考察したい。 

 石丸進一は1922年(大正十一年)佐賀県に生まれている。兄の影響を受け石丸は野球に打ち込む少年時代を過ごすが甲子園への出場はできなかった。石丸の実兄藤吉は名古屋軍に所属するプロ野球選手で石丸は出征先の兄にプロ野球選手への思いを血判を押して綴って送り、それを見た藤吉の推薦によりプロ野球名古屋軍に入団することになる。名古屋軍は石丸を兄藤吉の代わりとして内野手で起用、藤吉の復帰後も内野手としてプレーしていたが、藤吉の戦地帰りの影響からか連係プレーの息が合わず、グラウンド外では仲のいいこの兄弟が試合中に限っては喧嘩が絶えなかったといわれている。 

 連携の影響があったのか石丸は二年目には本来のポジションである投手としてプレーすることになる。一年目のシーズンは17勝19敗と負けが先行する内容だったが、当時の名古屋軍の全勝利数が39勝であったことを考えると立派にエースといえる働きをしていたと言えるのではないだろうか。翌1943年(昭和十八年)にはノーヒットノーランを記録、これは終戦前最後のノーヒットノーランとなる記録であった。10月7日の試合で石丸は4回を無失点に抑え降板、これが石丸のプロ野球選手最後の試合となる。

 すでに太平洋戦争の激化でプロ野球選手といえども召集は避けられず、たとえ戦地から帰還しても戦地での生活はプロ野球を続けられないほどに消耗してしまう現状から名古屋軍は石丸の召集を避けようとある奇策を採用する。それは石丸を大学生(日本大学法科夜間部)へ在籍させることであった。当時大学生には兵役が免除されており石丸が戦地に送られることは一旦は回避されたのである。

 しかし1944年からの学徒出陣により石丸も召集される。石丸は海軍飛行科を希望する。その先に待つものは「特攻」であった。厳しい訓練中石丸はよく「鉄拳制裁」を喰らっていたという。「プロ野球選手」だったという目につく存在だったからかもしれない。石丸はこの仕打ちに耐えていたが訓練の最中に行われた野球の試合で投手を務めた石丸は上官チームに対し本気の勝負を行い全く打たせなかったという。

 1945年いよいよ石丸にも特攻の前進基地である鹿屋に移動する命令が下る。石丸は出陣に際しての寄せ書きに「葉隠武士 敢闘精神」としたためたたあと「日本野球は」と書いている。寄せ書きを頼んだ同僚が「この期に及んでもまだ野球か!」と告げると石丸は「俺には野球しかないんじゃ!」と言い残して鹿屋に出発していった。
 5月11日、出撃の直前法政大学野球部に所属し、同じく特攻隊員となっていた本田耕一を相手にキャッチボールを行い、10球を投げ終えるとグラブを捨て笑顔で機上の人となり南に飛び立って行ったという。この日沖縄では航空母艦バンガーヒルが特攻機2機の命中を受け大破炎上した他複数の特攻機の突入が確認されているが、石丸の最後は定かではない。

 日本プロ野球選手のうち、特攻で戦死したのは石丸進一ただ一人である。

消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)

牛島 秀彦/河出書房新社


戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




[PR]
# by narutyan9801 | 2014-09-25 00:17 | Comments(0)